ブラジルの敗北と中田の引退宣言2006/07/03 22:04

個人的に、二つの衝撃的な出来事が続いた。

ブラジルの準々決勝敗退と、中田英寿の現役引退だ。 どちらも退くという点では同じだが、敗れて退くのと、自ら引いて退くという違いがある。

 ブラジルは本領を発揮する前に敗れた感が強い。まだまだこれから、ブラジルサッカーを見せてくれるはずだった。だが、勝負とはわからない。特にサッカーは何が起こるかわからない。一次リーグ敗退の危険さえあったフランスが、圧倒的な強さで優勝候補の筆頭に立っていたブラジルを打ち破ったのだ。だからこそ、サッカーは楽しく、エキサイティングなのかも知れない。

人生も、何が起こるかわからないからエキサイティングだ。私はキリストを信じてから、人生の楽しさを知る者とされたと思っている。まだ若い。でも、キリストと共に歩む人生は、本当にエキサイティングだ。明日何が起こるかわからない。でも、そこに主の恵みが用意されていて、私たちの想像をはるかに超える神の道の素晴らしさを体験させてもらえる。

 中田は自ら退く道を選んだ。ジダンの引退よりも4年は早い引退。もう一回W杯にチャレンジしても良かったのではないかと思ってしまう。だが、本人が色々と考え、悩んで決断したこと。人生において、私たちは色々な場面で自分の引き際というものについて考えさせられる。何かを始めることがあるならば、必ず何かを止めることもある。何かを始めるとは、何かを止めることでもある。

 中田はただサッカーを止めるということではなさそうだ。新しい彼の人生を歩むために、現役選手を辞めるようだ。キリストを信じることもそうかも知れない。キリストを信じるとは、自分を信じて、自分に頼る生き方を止めることなのではないか。自分がどれほどあてにならない存在であるかを知り、あるいは、自分に頼ることに疲れた人が、キリストに身を委ねていく。

 勝つこともあれば、敗れることもある。始めることがあるなら、止めることもある。人生はそういうことの繰り返し。どんなチャンピオンも、死ぬまで王者であり続けることはできない。どんな優れた選手も、いつまでも現役でい続けることなどできない。

はじめであり、終わりである神。

永遠に変わることなき神の存在って、本当にすごいことなんだな。

ミサイル7発!2006/07/05 18:54

北朝鮮がミサイルを連続発射した。

現時点で7発だ。

威嚇発射ということだと思うが、なんとももったいない話だ。なぜ、もったいないか? 7発のミサイルを海に投げ捨てる余裕があるなら、ひもじい思いをしている国民に食べ物を与えて欲しいと思うからだ。7発のミサイルでいったいどれぐらいの食料が用意できるのだろうか。

えっ、論点がずれてる!?

日本が危ない?

確かにそうかも知れないが、それは今に始まったことじゃない。それにもっと恐ろしいことは、神を信じないままで死を迎え、神の前に立たされることだ。神を信じないで生きてきて、神の前に立ったとき、どう申し開きをするのだろうか。

ミサイルで死ぬことも確かに怖いことかも知れない。でも、ミサイルより怖い事があると知っていると、ミサイルがおもちゃのように思えてくる。

あとどれぐらいミサイルを撃つつもりだろう。

ああ、もったいない。

献金の意味2006/07/10 23:33

Q. 教会でなされる献金には、どんな意味があるの?

A. 神様への礼拝行為。神様への感謝。神様に自分自身をささげる(献身)。以上のような意味がある。

① 神様への礼拝行為

旧約聖書の時代から、人々はささげ物として農作物の収穫の一部を神様にささげていた。それは、ささげないと災いに会うといった脅迫的理由では決してない。神様への礼拝として、自分たちにとって貴重な家畜や農作物などを神様にささげたのである。献金が礼拝式の一部として持たれるのは、献金が神様への礼拝の一部として理解されているからに他ならない。献金は、祈りや賛美と共に、重要な神様への礼拝行為である。

② 神様への感謝

神様はすべての物を私たちに備えて下さっている。娘がはじめて食事の祈りを覚えたとき、こういう祈りをした。パパのご飯をありがとうございます。ママのご飯をありがとうございます。お皿をありがとうございます。お箸をありがとうございます。スプーンをありがとうございます。フォークをありがとうございます・・・。彼女が言い終わるまで、私たち夫婦は吹き出しそうになりながら待っていた。でも、この祈りに教えられた。娘の祈りのとおりだから。献金は、与えられている物の一部を神様への感謝としてお返しするに過ぎないのだ。仕事も、着るものも、お金も家も、家族も、神様に与えられているものなのだ。神様の恵みに対する私たちの応答、感謝が献金である。

③ 神様に自分自身をささげる(献身)

献金は、自分自身を神様におささげする献身の意味を持っている。創世記に、カインとアベルという兄弟の話がある。ある日カインは穀物を神様にささげた。そしてアベルは動物を神様にささげた。しかし、カインとそのささげものは、神様に受け入れられず、アベルとアベルのささげた物は受け入れられた。その違いは、ささげた物の種類の違いではない。穀物だって良い。動物でも良い。それは現金か小切手かの違い程度でしかないと私は思う。ただし、彼らのささげる姿勢は全く違っていたのだ。アベルは自分の持っている物の中で最上のものを喜んでささげた。神様は、アベルのささげものにのみ目を留めたのではなく、「アベルそのささげもの」とに目を留めたのである。

上記のことを考えると、献金は金額が問題ではないことがわかる。自分にとってそれが神様への礼拝であるのかどうか、恵みへの応答、感謝としてささげているかどうか。そして、精一杯自分自身をおささげるするような思いで、献金しているかどうかが大事なのである。たとえわずかな額でも、「私は精一杯神様にささげたのです。」と言えるならば、その人とそのささげものを神様は喜んでおられるはず。

相手より一段下に・・・2006/07/13 15:01

少し前に買った、あるビジネス雑誌を読んだ。アソシエという雑誌だ。

「能あるビジネスパーソンは、(自分を)相手より一段下に見せる」

というテーマ。

著者は、次のような人が嫌いだと書いてあった。

「非常に頭がいい人」、「英語がペラペラな人」、「誰からも好かれている人」・・・要するに「仕事ができる人」が嫌いだと言う。

なるほど・・・。わかる気がする。

自分より秀でているという事がはっきりしている相手を見ると、多くの人々は劣等感を感じたり、ねたましさを感じたりする。たとえ、そう思いたくなくとも・・・

「すごいなあ」という純粋な感動と共に、ねたましい思いも湧き上がってくることがある。

それは聖書的には正しくないこと、そして罪であると言えるだろう。

けれども、私たちは、自分が罪を犯さないだけでなく、弱い人に罪を犯させないように配慮することも、大事なのではなかろうか。

この記事は、これをあくまでもビジネス上のテクニックとして紹介している。変に落ち着き払って、くだけた感じよりも、緊張しているぐらいに見える方が、印象が良いと言うのだ。

つまりは・・・「能あるタカは爪を隠せ」である。

しかし、聖書を信じる私の場合は人々への愛の動機の中で、爪を隠すことが必要なのだと気づかされる。

「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(ピリ2:3)

このすぐ前にある言葉は、「へりくだって」という言葉だ。相手が優れているから、優れていると思うのではなく、キリストが自らを低くされたように、まず自分が一段下にへりくだるべきなのだと教えられる。

私はできてないなあ。

率直にそう思った。クリスチャンでなくても、ビジネスの知識として、これができるのだから、クリスチャンも負けてはいられない!

ただし、キリストの愛の動機から・・・ということがキーワードだ。

フットサルやりました!2006/07/16 21:03

本日、夕方4:30よりキックオッフ!

今日に備えて、少しは体をつくる努力をしたつもりだったが、まだまだスタミナも全身の筋力も足りないということを感じた。それでも、先月よりは体が動いていたので、最近のトレーニングが無意味ではないことも実感でき、感謝だった。

妻にも加わってもらい、女子高校生も一緒にでき、皆で楽しめたことが何より。ギャラリーの方々もあり、なんとなくフットサルをやってるムードが出た!

やはり、このようにして運動し、汗を流すのは、とても気持ちが良い!!神様は、このようなスポーツを私たちに与えて下さっているのだから、本当に配慮に満ちたお方だ。

適度な重力が地球にあるのは素晴らしい。月では、こんなスピーディなスポーツは決してできない!両足を造って下さり、走ったり、ジャンプしたり、片足で踏ん張ったり、ボールをまたいだり、あいての股間を抜いたり、ボールをひょいっとすくい上げたり、カーブをかけたり、バウンドさせたり・・・

んー、なんてクリエイティブなんだろう!!神様のクリエイティビティを、私たちはこんなにも受け継がせていただいているんだ。だから、足だけなのに、色々なことをすることができる。

また続けてやっていきたい。神様、感謝します!!

ことばの制御とメール時代2006/07/20 19:41

「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は体全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)

自分の舌を制御するということは、本当に難しい。もし、この舌を正しく管理することができるなら、その人は本当の意味で正しい人なのかもしれない。

特に、親しい人との間での会話は要注意だ。甘えが出てしまうとき、感情的になっているとき、私たちは言葉を制御できなくなる。だが、そのようなとっさに出る言葉や、親しい間柄で発することばこそ、私たちの本心を表していることばなのではないだろうか。

上記の聖書のことばは、鋭く真実をとらえている・・・

ところで、近年ではインターネットの普及、携帯電話の普及が進み、かなりの人がこれらを使っている。かく言う私も「使いまくり」である^^;

だが、この電子メールが結構やっかいなのだ。非常に便利であり、有益なものである。が、会って話すことに比べ、色々な意味でリスクも大きい気がする。また、手書きの手紙などとも確かに違う。

手紙というのは、意外に面倒である。手間がかかる。特に手書きで手紙を書くとなれば、かなりの時間を確保する必要がある。だが、そこがミソだ。受け取る側は、自分のために時間を割いて、わざわざ手紙を書いてくれたことを感謝の思いで受け取るだろう。また、その筆圧、文字のひとつひとつに、その人の感情があらわれる。それでも、もちろん、誤解も起こりうるし、完全に正しく伝えることは難しい。

しかし、それ以上にEメールというものは、気持ちが正しく伝わりにくい。活字の羅列は、それだけでも冷たい印象を受けるのだ。まあ、最近は顔文字というのが、流行ってて・・・(^_^)(^o^)/(-_-;)(ToT)/~~~(#^.^#)(>_<)など、気持ちを表す記号で補う人々が増えている(若い人々の間で)。でも、やはり、気をつけなければ、相手をひどく傷つけてしまう結果になりかねないと懸念するのだ。

大切なことは、実際にメールを打つとき、私たちはパソコンに向かって打つのだが、その先に、ひとりの傷つきやすい、生身の人間がいることをいつも覚えながら書くということだ。顔が見えない、会った事もない人とメールのやりとりをすることもある。でも、どんな人とやりとりする場合にも、その先に神様がお造りになった、尊い存在である人間がいることを忘れてはならないのだ。

あまり話さないようにするとか、メールをしないようにするというのは、極端だ。そういうことではない。しかしながら、聞く人がどう感じるか、このメールを受け取る人がどう感じるかを、よく吟味することが大切だと思う。とくに、メールなら、書いたあと吟味する時間がある。2、3度読み返し、誤解を招く表現がないだろうか、確認してから送信するぐらいの配慮があっても良いのではないだろうか。

私も何度も失敗した (>_<) ←さっそく使った。笑 そして、忙しいときは、そっけないメールも多くなる。だが、人を励まし、人の徳を高め、そして神を賛美するようなメールを送るものになりたい。一通のメールが、人を倒れさせることも、立ち上がらせることもあることを知るべきでではないかと思う。

でも、それは、メールの力ではない!!

メールを書く人の「思いやり」なのではないだろうか。。。 (^_-)-☆

筋肉トレーニング2006/07/24 20:52

最近、フットサルをする機会があることから、スタミナをつけるための走り込みと、瞬発力を高める筋肉トレーニングをしている。

教会から帰ってから、外が暗かろうと、ボールをもって外に行く。50M程度を何度もダッシュしたり、ドリブルをしながら、走り回る。とても気持ちがいいー。

気がつかないうちに、ストレス解消になっていたようで、すがすがしい気分である。それに、体の調子も良くなっているのも実感できる。

筋肉トレーニングは、腕立て、腹筋、背筋を中心に行っている。が、なぜか効率が良くない気がした。そこで、文明の利器!!

「インターネット!!」

で、調べてみた。すると、やはり筋肉トレーニングにも、色々なルールがあることがわかった。もちろん、呼吸法などは知っていたわけだが、それ以外にも細かく情報を得ることができた。

特に、「筋肉がつくゴールデンタイム」なるものを知り、ちょっと感動^^

なんと、筋肉トレーニングをした直後30分間に、筋肉は再生し、発達するらしい。問題は、そのときに、筋肉再生に必要な材料を、きちんと体に与えているかどうかだということを知った。その材料こそは、「タンパク質」である。つまり、筋肉トレーニングをしたあと、30分以内に、吸収率が高めのタンパク質を体に与えてあげることで、筋力が効率良く成長するということだ。

それから、もう一つ、これは既知の情報だったわけだが、それでも改めてそうなのかと納得したことがある。それは、意識の問題だ。つまり、筋肉トレーニングをする際に、実際に自分が発達させたい部位を、常に意識しながら、トレーニングをすることが重要だというのだ。これもまた、なんとも興味深い。人間の意識とからだとが、いかに密接に関係しているかがわかる。

今日は、ある牧師から、意識(気持ちなども含む)と健康の関係について、話を聞いた。また、先日は、「笑い療法」なるものが存在することも耳にした。人間の体と気持ち、意識、精神衛生が、決して切り離すことのできないものであることがよくわかる。

聖書にこんな言葉があるのを思い出した。

「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」(箴言18:14)

健全な肉体は、健全な心から・・・

皆さん、教会に行きましょう!!(笑)