洗う価値もない2006/10/02 10:19

先日、妻がイスのクッションを洗おうとして、やめた・・・。

もともと安物のクッションで、子供の食卓のイスに使っていた。イスを汚されるのを恐れて、そのクッションを敷いていたので、だいぶ汚れてきている。

妻は、「安物だし、もうボロボロだから、洗うのももったいない」と言って、捨てることにした。

それを見ながら、私たちもこのボロクッションのようではないかと思った。洗う価値もないほどに、罪で汚れきっている・・・。でも、神様はそれを見捨てず、しかも大きな犠牲を払って、きれいに洗い流して下さった。

ご自分のひとり子キリストのいのちという犠牲だ・・・。 捨て去れても仕方ないほど、汚れきっている私たちなのに、神様はお見捨てにならず、あまりにも尊い代価を払って、罪を洗いきよめて下さった。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

伝わるのは心・・・2006/10/08 14:03

最近思っていることがある。

牧師として色々な人に連絡したり、手紙を書くことがある。けれども、それがいつの間にか、まさに牧師としての責任や義務という動機で、なすようになっている。そんな自分に気がついた。

しばらく来れてない人に連絡を取り、その人が教会に来ると安心する。また、しばらくすると来なくなる。また、連絡する。また来るようになる・・・。

そんな繰り返しの中で、私がしていることは何だろうかと思わされた。

とにかく教会に来れるように連絡を取ることが中心になり、それで来たら目に見える問題が解決したように思える。でも、根本的な問題は触れられていないままであったりするのだ。

私自身、その人への愛をもって接しているのだろうか。その人が来ないと人数が少なくなるからとか、牧師の責任を果たしていないような気がするからなどの動機がないとは言いきれない。だが、それはやはり相手にもわかるのではないだろうか。

やはり本当に伝わるのは心なのではなかろうか。

事実、心の伴わない言葉、心の伴わないプレゼントはむなしい。そして、受け取る時にも、不思議にそういうものはわかるものである。逆に言えば、たどたどしいことばであっても、そこに心が伴っているならば、それが人には伝わるのではないだろうか。

神様というお方は、私たちの心がどこにあるかを問いかけて下さる。

「この民は、口先では私を敬うが、その心は、遠く離れている。」(マタイ15:8)

このような者たちの礼拝は、中身がないので意味がないと言われる。人間関係も神様との関係も、私たちの心の所在が大切なのだと改めて思わされてた・・・。

問題を正す前に2006/10/19 08:52

最近、読んでる本から、教えられることがあった。 『断絶世代とつながるために ~ユースを導くための14章』という本だ。

その中で、人を肯定したり、受容したりすることについて触れられている。

で、このような言葉があった。

「問題を正す前に、その傷ついた心を慰めなくてはならない」

私たちの多くは、特に男性は、傷ついた心をいやすことよりも、その原因である問題にすぐに取り掛かる事が多い。私も、そういう失敗の連続である。

妻が、私に辛かった出来事を話してくるとき、その出来事をどう乗り越えるかを一緒に考えようとする。それは悪いことではない。だが、まず妻が求めているものは、一緒になって痛んでくれる存在である。「辛い思いをしたんだね・・・」その一言が言えるかどうかが、とても大事な気がするのだ。

そして、この本によれば、もし、そのようにしてその人と一緒にまず痛んであげられるなら、少し落ち着いてから一緒にその問題を考えることができるようになるということだ。

本当にそうだと思わされた。痛んでいる人の問題を、早く処理しようとするあまり、その痛みを一緒になって痛んであげることができず、本人も自分が受け入れられていないと感じてしまう。

イエス様は、罪人たちの痛みを知り、一緒に食事をして下さった・・・。 そんなことを思い出した。

ネット関連病気あれこれ2006/10/20 08:48

検索エンジンgooのトップページに次のような言葉が並んでいた。

インターネット症候群

mixi疲れ

アマゾン病

未読RSS恐怖症

ウィキペディア中毒

ブログ燃え尽き症候群

四半世紀には、いや10年前には、まだ存在していないような病気、あるいは症候群ではないだろうか。

これらひとつひとつの中身について、詳細に調べたり、触れるつもりは全くない。けれども、いずれも、ネット依存が過度に進行していくことによって、悪化していくことは間違いはないのではなかろうか。この世界は、急速に変化している。人々の心の渇きもまた、加速しているようにも感じる・・・。

インターネットの技術を発展させることも大事かも知れないが、人の心を養い育てることに、もっともっと多くの努力が払われなければならない。これらを利用するのは、他のどんな生物でもなく、私たち人間なのだから・・・。