功名が辻2006/11/05 14:04

司馬遼太郎原作の「功名が辻」

現在放映中のNHK大河ドラマだ。

その中で、豊臣秀吉、徳川家康といった人物が、諸大名をどのように自分の味方としていったかが描かれている。秀吉も、家康も、共通して描かれていたのは、誰が真に信頼できる者なのかを見極めようとしていた姿である。

戦国の時代、大名たちは強いものにつかなければ、自分たちのお家の存続もままならないという背景があった。そのために、頑固に忠義を貫いていても、自分の家族、お家を守るために止む無くつくべき相手を変えなければならなかった。

しかし、それは一方で、上の者からすれば自分のことをいつ裏切るかも知れないとの不安の種でもある。だから、二人ともあえて自分に不信をいだかせるような行動をとってみたりする。そこで、本当に信頼できるものは誰なのかを見極めようというのである。

いつの時代でも、信頼に値する存在があるかどうかは、大きなものだと思わされる。自分を裏切らない存在。いつでも自分の味方でいてくれる存在。

これほど尊いものはない。

そう、キリストは、私たちを裏切らない。私たちは真実ではなくても、キリストは真実であり、私たちを決して裏切らず、見捨てず、また失望させられることもない。

偽りの情報にあふれるネット社会を見ながら、真に信頼できる聖書と、まことの神様をいつも心の拠り所とすることができる恵みを覚えた。自分の態度いかんに関わらず、私たちが信頼をおける相手。それはキリスト以外にはいないのではないだろうか。

指輪物語32006/05/24 15:19

タイトルに、「指輪物語3」とあるが、「指輪物語3」という作品ではない。指輪物語についての勝手気ままな評の第三回目という深い意味が、ここに込められている(いやこれっぽっちも深くない!)。

この物語には、イエス・キリストを表すと思われる二人の存在がある。主人公フロドと、王アラゴルンである。この二人の姿を足しても、イエス様には到底及ばないわけだが、イエス様の姿のある部分は、この二人の姿を通して感じられる。作者がどこまで、そういう意図を持っていたかはわからないが、勝手に語らせていただきます。

主人公フロドは、罪を背負って一人孤独に苦しみの十字架へ歩んでいくキリストの姿に重なる。権力の象徴である指輪。それはその身を滅ぼす恐ろし存在である。実際多くの者が、その指輪の誘惑に敗れてしまい、その身に滅びを招くのである。聖書が言う罪そのものである。この罪の結果は滅びであると聖書は語る。でも、これらの罪は一見甘く美味しそうであり、私たちにはとても魅力的に感じるのだ。フロドは、小さな力のないホビット族という小人である。武力や権力によって、この指輪を廃棄するのではなく、自らがその重荷を背負い、唯一この指輪を滅ぼせるという火山に向かって歩んでいく。キリストもまた武力や権力によらず、謙遜にへりくだって、最も小さき存在のようにして、十字架にかかって下さったのだ。私たちの罪を背負って。

一方、アラゴルンは、フロドとは反対のキリストの性質を現す存在のように感じる。とくに、第三部のタイトルは「王の帰還」となっているが、王がこの世界に戻ることで、平和が打ち立てられることを示している。これはマタイの福音書に顕著に見られる王イエスの姿である。武器こそ持たないキリストだが、この世界を造り、この世界を治める王としてのキリストの姿が聖書にあることもまた事実である。王ダビデの子孫として、王家に生まれたキリストの姿。だが、多くの民はその王様をなかなか受けれいれない。だが、この方に自分自身の生涯を治めてもらいたいと決心し、王として自分の心に迎え入れるならば、神の平和が私たちの心に訪れる。

ちなみに、少し前に上映された映画、「ナルニヤ国物語」に出てくる、アスランという王(ライオン)は、この二人の姿を合わせた姿、つまりキリスト自身の姿をより明確に表している。作者自身が、このアスランは、イエス・キリストの事であるということを明らかにしている。

ダ・ヴィンチ・コードなどと違って、聖書が教えるキリストの姿を表そうとする作品として、お勧めである。

ダ・ヴィンチ・コード2006/05/18 13:30

今、巷を騒がせているダ・ヴィンチ・コード。私はほとんど歯牙にもかけないでいたのだが、この度米国カトリック団体が抗議と不買運動を開始することにしたようだ。映画の公開にあわせて19日からするそうだ。映画配給会社はソニーの関連会社ということで、ソニー製品の不買運動ということらしい。Yahooのニュースによれば、世界のカトリック信者10億人規模の運動にしていきたいということらしい。果たしてどこまで広がるのだろうか。

そもそも何が問題にされているのか。

すでにだいたいの内容を知っている方も多いと思うが、ようはキリストが子供をもうけていて、その事実を教会が隠し続けてきたという内容を、いかにも事実であるかのように主張している点だ。確かにこれは、キリスト教会全体を敵に回すような内容であると言える。

ただ、配給側は、最初からある程度、こうした反響があることは予測していたのではないだろうか。まあ、私から見れば、そんな主張はこれまでもいくらでもあったし、事実無根であるので、ムキになる方がかえって相手の思うツボだと思う。とはいえ、実際にこの小説や映画が与える影響の大きさを考えると、注意しなければならない。イギリスの世論調査では、6割ぐらいの人がこの話を本当だと思っているそうだ。形骸化した信仰の側面を見るようだ。教会に行くことがただの文化になってしまうと、真偽を見分ける目も失われる。信仰が生きていないのだろう。

それにしても、プロテスタントって、カトリックのような組織的な動きが苦手だから、こういう部分では遅れをとってしまうんですよね。私も不買運動でもしようかな・・・って、もともとそんなにソニー製品とか買ってないしなあ。それにソニーが悪いというわけでもないような気が・・・。

やはり、表現の自由がある以上、情報を受け取る側で気をつけるしかないような気もします。

女王の教室特別編(後編)2006/04/08 11:13

女王の教室スペシャル版の後編をやっと見た。

こうやって鬼教師・阿久津先生が生まれた。という内容。

率直な感想は、

うーん、ちょっと無理がある感じ

というのは、こういう背景からあのような教師が生まれるだろうか?という疑問を感じるからだ。「こういう」とか「あのような」と書いているのは、多少はネタバレを気にしているのと、前回書いたものを読んでいることが前提となっているから(読んでない人は前回のをまず読んでネ!)。

中途半端なやり方では、現代の子供たちには立ち向かえない。親の圧力に屈していたら、子供たちはなお更つけあがり、大人をうまく利用するずるさばりが身についてしまう。そういったことを強く感じ、何を言われても自分の信念を貫くことを決意したというわけだが・・・

私が特別編を見て思ったのは、この先生は生徒への愛も深い先生。適当に、うまくいい加減にやるタイプでない。そして、子供たちの表面的な声ではなく、心の叫びを聞ける先生だ。逆に、それゆえに、あの本編シリーズの阿久津先生の姿と、そうなるまでの過程とにギャップを感じてしまうのだ。

やはり後付のもの?なのだろうか。それとも、設定として詳細な阿久津先生の歴史が最初からあって、それをドラマとして提示しただけなのか。

まあ、いずれにしても、ギャップを感じた人はいるのではないかと思う。とはいえ、そこにあるメッセージはやはり強烈であろう。なぜ、「人を殺してはいけないのか。」 そういう子供たちの疑問に答えられる教師がどれだけいるだろうか。親がどれだけいるだろうか。子供たちは、本気で自分たちと向かいあってくれる親や教師を、心の深いところで求めている。良い先生という評価を求める教師、問題の教師と言われたくないという自分がかわいい教師。そういう教師に子供たちは心を開くことはないのだろう。

命がけでそれをした教師を私はよく知っている。 私にとっては、イエス・キリストという方がその模範である。

女王の教室2006/03/31 13:28

「女王の教室」

鬼のように厳しい女教師とその生徒(小学六年生)たちの闘い?を描いたドラマ。先日は特別篇があり、ビデオでようやく前篇を見終わったところ。

昨年は連続ドラマとしてやっていて、かなり話題になったようで、インターネットでダイジェストを見て、年末に集中してやっていたものを少しかじって、本屋さんでちょっと立ち読みして・・・という中途半端ながら、結構内容を知っている私。

というのも、ドラマスタート当初、かなりの批判があり、こんなドラマは中止すべきだぐらいの意見が相継いだらしい。そんな情報を見て、これは面白そう・・・とテレビは見ず、とりあえず公式HPを訪れる。そこで各回のダイジェストと、鬼教師の名言をチェック! さすがに成績下位二人を雑用係にするわ、授業中にトイレに絶対行かせないわでは、「やり過ぎだあ」と思った。

しかしながら、興味深かったのは、徹底している厳しさと、一貫性だ。同じ姿勢を貫くことがどれほど難しいことか・・・と私は思う。そして、それが歪んではいるものの、真剣に子供たちを教育したいということの現われであることを知って、なるほどと頷いた。それにしてもこれだけ厳しく、行き過ぎている教師像だが、こういう先生に教えてもらいたいという小・中学生の投稿が結構目に付いたのは、本当に興味深いし、ある意味 納得!だった。

こういう教師がいないのだ。これは、先生達を責める言葉では決してない。社会全体の責任としてとらえなければ意味がないからだ。子供を真剣にしかり、その信念を貫ける教師を、社会が排除してしまっているからだ。十分な研修・教育システムがないことや、教師のメンタルフォローなども不十分。教師同士の上下関係や付き合い上の問題。親も生徒も、自分たちのことばかり主張し、教師の大変さを理解することが少ない。ちょっとぶっただけで、訴えられるようでは、子どもをしかることなどできなくなってしまうのだ。

そこには、小学生の子供たちさえ含まれるべきだと私は考える。子供だから、ただの犠牲者ではあり得ない。ある意味、子供ほど残酷なものはない。身勝手でわがままな子供たちによって、生徒の嘘によって、この教師は、ひどく傷つき、また学校を辞めさせられている。現実にも、子供たちに傷つけられている大人は少なくない。だからこそ私たちは、愛の伴った厳しさをもって、子供たちをしかってあげなければならない。罪は罪、悪は悪だと、真剣に語らなければならない。

そして、抱きしめてあげなければならない。

このドラマは、現代の社会だからこそ、意義があるドラマだ。20~30年前にやっても、あまり関心を寄せられないだろうと思う。この社会の問題に、ある意味極端すぎると思える手法でメスを入れてくれている。だから、ヒットした。私はそう思う。そして、極端だからわかり易い。実際にこのとおりにしたら、即クビだと思うが、教師も親も、子供たちもここから何かを学びとって欲しいと思う。見てない人は、ぜひ見てみましょう。

指輪物語22006/03/07 16:15

さて、指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)について、前回の続きを記していきたい。この物語は、権力の象徴である「指輪」を巡る物語。この指輪には恐ろしい魔力があり、それを手にする者は、世界を支配する力を持つと言われる。冥王サウロンは、世界を支配するためにこの指輪を求めていた。それに対して、主人公フロドが与えられた使命は、この指輪を滅ぼすことにあり、それを旅の仲間たちが民族(種族)を越えて命がけでサポートしていくというストーリーである。

ここでまず、この指輪が何を意味するのかについて私なりの理解を含めて語りたい。この指輪は、先に述べたように「権力、支配力」の象徴である。映画の中では、常にこの指輪を巡る争いが生じる。誰もがこの指輪を欲し、誰もがこの指輪をはめたいという誘惑にかられる姿がある。最も信頼できる仲間でさえ、その誘惑にかられることがある。そして、この指輪の誘惑にとりつかれた者は、時には凶暴な姿となり、時には非常に惨めな姿となるのだ。

これは、私たち人間のうちにある権力欲、支配欲という問題と深く関係している。聖書が言う「罪」の問題である。人によっては、自分は別に「権力」や「支配力」などには興味はないと言うでしょう。しかし、実際には、誰の心にも、そうした欲望という問題があるように思う。

 私たちは、誰かを自分の思い通りに動かしたいと思っている。いや、自分で意識していなくとも、自分の都合通りに人に動いて欲しいと思い、コントロールする面がある。自分の妻、自分の夫の人格や自由を無視して、自分の思い通りになって欲しいと願う。子供たちが言うことを聞かないとき、イライラする。自分が望むとおり、言うことを聞く「良い子」であることを求めてしまい、それを強要することさえある。人々が自分を尊敬し、賞賛の声をたくさん浴びせてくれるよう願い、自慢話をし、時には謙遜さを装うことさえある(そのようにして、人々が自分を尊敬し、賞賛するようにコントロールしようとしているということ)。

このように、「権力、支配力」と言うと、国や世界を治めるような大きな力とばかり考えるかも知れないが、実際には、ごくごく身近なところにも「権力、支配力」があり、それを求める欲望が私たちのうちにはあるように思う。

教会の牧師という立場におけるひとつの誘惑は、教会に来る人々に、牧師好みの信徒になって欲しいと願うことだ。牧師を深く尊敬し、牧師に従順な信徒になって欲しいと思ってしまう危険があるのだ。でも、それでは神様が与えて下さっている、その人の個性や人格が無視されていくことになる。牧師が祈るべきことは、彼らが神様と出会い、その恵みと祝福を豊かに受けるようになり、それによって私ではなく、神様の御名があがめられるようになることである。神様は一人一人の人格や個性をそのままで受け入れてくださる方である。

主人公フロドは、誰もが負いたくないような使命を負って、苦しみながら旅を続けていく。多くの誘惑と闘いながら、孤独と闘いながら、人類のために、この欲望の象徴、権力の象徴を放棄しに行く。

続く

指輪物語12006/03/02 17:20

「指輪物語」と書いたが、「ロード・オブ・ザ・リング」のこと。題としてはちょっと長いので、小説の邦題を使わせていただいた。この感想や評を書くのは、容易ではないので、避けがちだったが、何回かに分けて書きたいと思っている。

 この作品は、ご存知の通り、トールキンの小説「指輪物語」の映画化だ。中学時代にあっという間に、全部読み通してしまったのを覚えている。3部構成で、小説にして6冊だったが、わずか1~2週間で読破した。ここで扱うのは、あくまでもこの小説をもとにして作られた映画の方だが、原作との関わりも重要なので、ところどころ触れるかも知れない。

 この映画、原作と同様、全部で3部作だが、そのどれもが3時間ぐらいずつという長さ。しかし、見るのに根気などいらない。まさにハラハラ、ドキドキの連続である。いや、ハラハラ、ドキドキだからだけではない。十分に練りこまれ、吟味されている重厚なストーリーと世界観。そこにある豊かな人間(その他の種族もあり)模様。もちろん、驚くほどの撮影技術、映像美、荘厳な音楽。これら全体に手ぬきがないところが、観る者を魅了するのかも知れない。

 だが、この作品の背後にあるものを知らずに見ると、ただ色々なモンスターや妖精が出てくるファンタジーで終わってしまう。それでも十分に感動を覚えるし、人間の弱さや心の葛藤、勇気など、色々な面で教えられることだろう。

 あまり知られていないかも知れないが、彼はあの「ナルニア国物語」の原作者C.S.ルイスと親交があった。と同時に、二人ともキリスト信仰者でもあるのだ。「ナルニア国物語」と同様、この作品には聖書的な価値観がふんだんに盛りこまれている。それを発見することも、私にとって楽しみなことだった。そういう意味で、この作品、 

 深いんです

 という思わせぶりな発言を残しつつ、今日はここまで。ちょっと時間がないもんで。すいませんm(__)m。次回をお楽しみに!