NO NO NO2006/08/28 09:14

このシリーズ、既に3回目。

今回もブルーハーツから。

やはり青春時代のグループなんで思い入れがありますねぇ。

けれども、最初はカセットテープやCDで聞いてたんで、彼らの姿を実際のテデビではじめて見た時は、一瞬ひきましたねぇ。

ちょっとこいつら、大丈夫か? いっちゃってるぞ~なんて思ったも。まあ、すぐに慣れたわけだが・・・笑。

さて、今回の曲は「NO NO NO」

その中でもお気に入りの歌詞は・・・

「戦闘機が~ 買えるぐらい~の はした金ならいらな~い♪」

この歌詞にしびれた。中学生の私にはインパクトがあった。 戦闘機って、めちゃくちゃ高いんじゃないか??と思い、それをはした金と言ってのけるところがかっこいいと思った。ブルーハーツは、社会風刺をしながら、社会に流されない自分たちの生き方を模索しようとしているように見えて、魅力を感じたわけだ。

確かに、人間は、戦闘機を買えるぐらいのお金のために、平気で人をけ落とし、不正をし、犯罪さえも犯す。家族を犠牲にし、自分の健康を犠牲にし、はした金のために、すべてを失うこともある・・・。なんとむなしい生き方だろうか。

いっそ、戦闘機を買える程度のはした金ならいらないと、言ってのける生き方を胸を張ってしたいものだ。どうせなら、世界を牛耳れるほどのお金を求めて、そのお金で貧しい人々を助け、平和のために惜しみなく使うような生き方をしたい。中途半端なお金のために、大事なものを失うのは本末転倒だ。

「お金のために健康を犠牲にし、健康のためにそのお金を使う。」(神様へのインタビューより引用)

確かに神様から見たら、こっけいな姿だろうと思う。

少年の詩2006/08/20 15:24

今回もブルー・ハーツの歌詞から・・・

『少年の詩』より・・・

''「別にぐれてる~ わけじゃないんだ

ただ大人たちに~ほめられるような~

馬鹿にはなりたくない~」''

思春期の頃、色々な意味で大人に反発したくなったものだ。

そういう若者をぐれていると決めつけるのも、大人たちの論理なのかも知れない。

この歌詞には、ある意味、すごい純粋さを感じる。大人たちに気に入られるような、建前上の優等生になることの方が、意外にすれている気がする。ある意味、心の中では大人たちをあざ笑っているのかも知れないからだ。

私自身が、そういう生き方をしてきた部分もある。良い成績をとり、きちんとあいつさをしてさえいれば、あの子は良い子だ、立派な子だと大人は思う。でも、私の心の汚れた思いを知っている大人は、ほとんどいなかった。

そういう意味で、この歌詞は私の心を打った。こんな風に素直に反抗した方が、よほど清々しいのではないか。そんな気持ちもあったのかも知れない。 ある意味、私は、ここにある大人たちにほめられるような馬鹿だったのだ。

でも、私は、キリストという方と出会った。私の心の隅々まで知っている全知全能の神を知ったのだ。私がどんな思いで、優等生として歩んだかを知っている神様だ。それだけではなく、そこにある私の魂からの叫びもまた知っていて下さった。そして、そのままの私を抱きしめてくれた。

大人になればなるほど、この社会の波に飲まれれば飲まれるほど、本音と建前を使いわけ、人の目、人の評価ばかり気にする生き方に終始するようになる。一見ひねくれているように見えるが、こういう純粋さが大人たちに必要なのかも知れない。

イエス様はおっしゃった。子供のような心で求めなければ、神の国に入れないと・・・。純粋な叫びを聞き分ける耳、純粋に叫ぶことが出来る素直さ、神様にそれらを祈り求めている私である。

リンダリンダ2006/07/31 20:50

中学生の時だ。友人が、ぜひ聞いてみてくれって、カセットテープをくれた。

それは、ブルー・ハーツというロック・グループのテープだった。

それまで、さほど興味を持たなかった歌謡曲。

せっかくの友人の好意と思い、試しに聞いてみた。なるほど。あいつが「すごくいいんだ」と言っていたのがよくわかった。私の心を躍らせる曲がいくつかあった。

さて、そんな昔の曲を思い出して、ここにつづってみたい。

ひとつは、ブルーハーツの中でも有名な曲。一見、たいして意味もなさそうな、のりだけの曲のようだが・・・。

こういう歌詞が印象的だった。

「どぶねずみ~ みたいに~ 美しくなりたい~ 写真には~ 写らない~ 美しさ~があるから~」

どぶねずみ??? 何をどうしたら、美しいのか、よくわからなかった。が、写真に写らない美しさって何だろう・・・ふとそう思った。ねずみの中でも、どぶねずみと呼ばれるねずみは、誰にも好かれないような、不潔な印象がある。じゃあ、存在する意味がないのだろうか?

決して、そうではない。現在の私の視点から考えると・・・どぶねずみもまた、神様によって造られた意味ある存在だ。偶然、そこにあるのではない。 そして、写真に写るのは、どぶねずみのある一面でしかない。そして、外見でしかない。どぶねずみもまた、生きる意味をもって、精一杯、自分らしく生きているのであり、また、何かの役に立ちながら生きているのだ。

どぶねずみみたいに、美しくなりたい。決して自分は美しく、人からちやほやされるような存在ではないかも知れない。むしろ、かっこわるく、泥まみれになって、必死に生きているのかも知れない。でも、そこには、写真には決して写らない、美しさがあるのかも知れない。写真に写るためだけの、うわべの美しさだけではなく、写真に写らない美しさを、もっと大切にしていければと思う。

「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)