久々です ― 2007/01/13 12:52
本当に久々の更新となります。 もはや、誰も読んでる人がいないのではないだろうか・・・。
と思えるほどです(笑)。
でも、神様は読んでいて下さるんです。
私の心も、私の行動のすべてを知っていて下さるんです。
私達にとって、辛いなぁって思うことの一つは、誰にも自分のことが理解してもらえないと思うときです。
自分の苦労や、自分の努力や、自分の考え、主張が理解してもらえない。これってすごく孤独なんですよね。
神様は、あなたの労苦、忍耐をすべて知っているとおっしゃいます。私自身さえわかっていないような、髪の毛の数まで、知っておられる方なんです。
そんな方が今日も私とともにおられ、私に労苦を知っていて下さるんだと思うとなんか嬉しいじゃありませんか^^
問題を正す前に ― 2006/10/19 08:52
最近、読んでる本から、教えられることがあった。 『断絶世代とつながるために ~ユースを導くための14章』という本だ。
その中で、人を肯定したり、受容したりすることについて触れられている。
で、このような言葉があった。
「問題を正す前に、その傷ついた心を慰めなくてはならない」
私たちの多くは、特に男性は、傷ついた心をいやすことよりも、その原因である問題にすぐに取り掛かる事が多い。私も、そういう失敗の連続である。
妻が、私に辛かった出来事を話してくるとき、その出来事をどう乗り越えるかを一緒に考えようとする。それは悪いことではない。だが、まず妻が求めているものは、一緒になって痛んでくれる存在である。「辛い思いをしたんだね・・・」その一言が言えるかどうかが、とても大事な気がするのだ。
そして、この本によれば、もし、そのようにしてその人と一緒にまず痛んであげられるなら、少し落ち着いてから一緒にその問題を考えることができるようになるということだ。
本当にそうだと思わされた。痛んでいる人の問題を、早く処理しようとするあまり、その痛みを一緒になって痛んであげることができず、本人も自分が受け入れられていないと感じてしまう。
イエス様は、罪人たちの痛みを知り、一緒に食事をして下さった・・・。 そんなことを思い出した。
洗う価値もない ― 2006/10/02 10:19
先日、妻がイスのクッションを洗おうとして、やめた・・・。
もともと安物のクッションで、子供の食卓のイスに使っていた。イスを汚されるのを恐れて、そのクッションを敷いていたので、だいぶ汚れてきている。
妻は、「安物だし、もうボロボロだから、洗うのももったいない」と言って、捨てることにした。
それを見ながら、私たちもこのボロクッションのようではないかと思った。洗う価値もないほどに、罪で汚れきっている・・・。でも、神様はそれを見捨てず、しかも大きな犠牲を払って、きれいに洗い流して下さった。
ご自分のひとり子キリストのいのちという犠牲だ・・・。 捨て去れても仕方ないほど、汚れきっている私たちなのに、神様はお見捨てにならず、あまりにも尊い代価を払って、罪を洗いきよめて下さった。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
孤独との戦い ― 2006/09/18 17:58
人は誰でも孤独である・・・。
と言うと、なんか暗い感じがするだろうか??
でも、事実なのではないか。素敵な恋人がいる人、結婚している夫婦、子沢山な家庭、親友に恵まれている人、よくなついている部下を持つ上司・・・。
そういう環境にありながらも、常に孤独ととなり合わせで、さびしさをまぎらわすように飲み食いや、スポーツ、快楽にふける人々が少なくないはず・・・。
一心同体となっているような、親しい夫婦であってさえ、互いを理解しきれずに悩んでいる。夫婦の間でさえ、孤独を感じるのだ。
人間はこの世のものでは、どうしてもその心を満たす事ができないもの。なぜなら、神様は人間をそのように造ったからだ・・・。造り主である神の愛の中に留まってはじめて、その心が満たされる。もちろん、神様は友人や家族を用いて、人間を励まし、助けさせる。だが、その心の、いや魂の飢え渇きを真に満たすことができるのは、キリスト以外にはないのだ。
あなたは、さびしくないだろうか?
楽しいことをし、快楽にふける。その時は、楽しく、満たされてるような気がするかも知れない。でも、好きな人にいつふられるか、友人にいつ捨てられるか、大切な人がいつ自分から去っていくか・・・。楽しい時が過ぎれば、不安になり、恐れを抱き、さびしくなるのではないだろうか・・・。
仲良く楽しそうにしている人々を見ては・・・自分は孤独だと感じるかも知れない。けれども、そう見える彼らもまた、心のうちに深い孤独を抱えて生きているに違いない。神を信じているのでないならば、必ず別れがあるからだ・・・。
神様は、私たちを愛している。私たちがイエスを信じるならば、一方的に見捨てられる事など決してない。「いつも共におられる神(インマヌエル)」それが、この方の名前なのだ・・・。
あなたの孤独は、この方によってのみ埋められると私は信じている。
ことばの制御とメール時代 ― 2006/07/20 19:41
「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は体全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)
自分の舌を制御するということは、本当に難しい。もし、この舌を正しく管理することができるなら、その人は本当の意味で正しい人なのかもしれない。
特に、親しい人との間での会話は要注意だ。甘えが出てしまうとき、感情的になっているとき、私たちは言葉を制御できなくなる。だが、そのようなとっさに出る言葉や、親しい間柄で発することばこそ、私たちの本心を表していることばなのではないだろうか。
上記の聖書のことばは、鋭く真実をとらえている・・・
ところで、近年ではインターネットの普及、携帯電話の普及が進み、かなりの人がこれらを使っている。かく言う私も「使いまくり」である^^;
だが、この電子メールが結構やっかいなのだ。非常に便利であり、有益なものである。が、会って話すことに比べ、色々な意味でリスクも大きい気がする。また、手書きの手紙などとも確かに違う。
手紙というのは、意外に面倒である。手間がかかる。特に手書きで手紙を書くとなれば、かなりの時間を確保する必要がある。だが、そこがミソだ。受け取る側は、自分のために時間を割いて、わざわざ手紙を書いてくれたことを感謝の思いで受け取るだろう。また、その筆圧、文字のひとつひとつに、その人の感情があらわれる。それでも、もちろん、誤解も起こりうるし、完全に正しく伝えることは難しい。
しかし、それ以上にEメールというものは、気持ちが正しく伝わりにくい。活字の羅列は、それだけでも冷たい印象を受けるのだ。まあ、最近は顔文字というのが、流行ってて・・・(^_^)(^o^)/(-_-;)(ToT)/~~~(#^.^#)(>_<)など、気持ちを表す記号で補う人々が増えている(若い人々の間で)。でも、やはり、気をつけなければ、相手をひどく傷つけてしまう結果になりかねないと懸念するのだ。
大切なことは、実際にメールを打つとき、私たちはパソコンに向かって打つのだが、その先に、ひとりの傷つきやすい、生身の人間がいることをいつも覚えながら書くということだ。顔が見えない、会った事もない人とメールのやりとりをすることもある。でも、どんな人とやりとりする場合にも、その先に神様がお造りになった、尊い存在である人間がいることを忘れてはならないのだ。
あまり話さないようにするとか、メールをしないようにするというのは、極端だ。そういうことではない。しかしながら、聞く人がどう感じるか、このメールを受け取る人がどう感じるかを、よく吟味することが大切だと思う。とくに、メールなら、書いたあと吟味する時間がある。2、3度読み返し、誤解を招く表現がないだろうか、確認してから送信するぐらいの配慮があっても良いのではないだろうか。
私も何度も失敗した (>_<) ←さっそく使った。笑 そして、忙しいときは、そっけないメールも多くなる。だが、人を励まし、人の徳を高め、そして神を賛美するようなメールを送るものになりたい。一通のメールが、人を倒れさせることも、立ち上がらせることもあることを知るべきでではないかと思う。
でも、それは、メールの力ではない!!
メールを書く人の「思いやり」なのではないだろうか。。。 (^_-)-☆
相手より一段下に・・・ ― 2006/07/13 15:01
少し前に買った、あるビジネス雑誌を読んだ。アソシエという雑誌だ。
「能あるビジネスパーソンは、(自分を)相手より一段下に見せる」
というテーマ。
著者は、次のような人が嫌いだと書いてあった。
「非常に頭がいい人」、「英語がペラペラな人」、「誰からも好かれている人」・・・要するに「仕事ができる人」が嫌いだと言う。
なるほど・・・。わかる気がする。
自分より秀でているという事がはっきりしている相手を見ると、多くの人々は劣等感を感じたり、ねたましさを感じたりする。たとえ、そう思いたくなくとも・・・
「すごいなあ」という純粋な感動と共に、ねたましい思いも湧き上がってくることがある。
それは聖書的には正しくないこと、そして罪であると言えるだろう。
けれども、私たちは、自分が罪を犯さないだけでなく、弱い人に罪を犯させないように配慮することも、大事なのではなかろうか。
この記事は、これをあくまでもビジネス上のテクニックとして紹介している。変に落ち着き払って、くだけた感じよりも、緊張しているぐらいに見える方が、印象が良いと言うのだ。
つまりは・・・「能あるタカは爪を隠せ」である。
しかし、聖書を信じる私の場合は人々への愛の動機の中で、爪を隠すことが必要なのだと気づかされる。
「互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」(ピリ2:3)
このすぐ前にある言葉は、「へりくだって」という言葉だ。相手が優れているから、優れていると思うのではなく、キリストが自らを低くされたように、まず自分が一段下にへりくだるべきなのだと教えられる。
私はできてないなあ。
率直にそう思った。クリスチャンでなくても、ビジネスの知識として、これができるのだから、クリスチャンも負けてはいられない!
ただし、キリストの愛の動機から・・・ということがキーワードだ。
前を向いて・・・ ― 2006/06/15 14:36
以下はYahoo!スポーツニュースより引用。
外国人記者に対する中田のコメント:
「あなた達はいつも悲観的だ。我々が出来ることは次の試合に勝つと信じること。クロアチアは良いチームだが、それでも、日本の方が強いと信じている」(和訳)
また、残り2試合で勝ち点4を手にするのが目標かとの質問に対して:
「なぜ勝ち点4なんだ?2試合残っているので、我々は勝ち点6を手にすることが出来る」
多くの人は、彼を馬鹿にするかも知れない。身の程を知らないと言うかもしれない。そして、結果もさんざんかも知れない。でも、最初から諦めて楽な道を歩もうとする生き方より、前向きで快い。
中田は、惨敗した豪州戦のことをもう振り返らず、目の前にあるなすべきことに、非常に前向きに取り組んでいるように見える。彼のメンタルの強さを伺えるし、すぐに悲観的になってしまう私たちは、見習うべきところがあるのではないだろうか。
なぜ悲観的になるのか?そのメカニズムを勝手に考えた。そこにあるのは、傷つくことへの恐れであり、自分を守ってしまう弱さではなかろうか。すぐに悲観的になってしまう人は、期待をもって前向きに取り組んだ結果、ダメだったときのショックを恐れているのではなかろうか。
たぶん、私はそうだ。
頑張って、そして結果にも期待してダメだったとき、期待した分だけショックが大きい。それならば、最初から期待などしないようにしよう。そうすれば、ダメだったときのショックも小さい。無理だと思っていた方が楽。
私は聖書を学んでいる。聖書を読めば読むほど、信仰とは驚くほど楽観的に生きる姿勢であると思わされる。すべてのことには神様の時があり、すべてのことに神様の計画があり、すべてのことに神様の御手がある。そうなると、悪いことをなさらない神様に、期待し続ける道しかない。苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、ショックなこと。色々ある。だが、神様は真実で正しい方だ。そこに意味がある。そこに神様の計画がある。そこに神様の御手がある。
人事を尽くして天命を待つ。そういう言葉もある。最終的な結果は、神様のみが知っている。でも、私たちにできることがある。後ろのことを引きずっていつまでも前を見ない生き方ではなく、目の前にあるなすべきことを精一杯なすことだ。その上で、神様が下さる結果を待てば良い。人事を尽くしたのなら、神様にゆだねれば良いのだ。
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