桜 ― 2006/04/04 12:37
桜の季節。
今年は早かったので、もう葉桜になりつつある。 毎年思うことだが、桜の命は短い。
そして短いからこそ、そこにある命の輝きに感動する。
いくらきれいだからと言って、1年中咲いていたらどうなるだろうか。ふと、そんなことも考えた。きっと人々はたいした関心を払わなくなり、見向きもしなくなるのではないだろうか。
なんとなくそんな事を思った。
迫害を受けてきた聖書 ― 2006/04/05 13:44
キリスト教入門シリーズ、「聖書」の第四回目。
4. 誰も滅ぼすことができなかった聖書
聖書ほど激しい迫害を受けてきた書物はない。聖書は素晴らしい愛に満ちた書物であるが、一部の権力者たちにとっては、それは目の上のたんこぶでもあった。聖書は男女平等の思想や、人間を神としてあがめる行為を禁止している。自分を神のようにあがめて欲しいと望む支配者たちにとっては、邪魔な存在であったと言える。
ナポレオンの言葉に、こういうものがある。「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生物である。」
有名な迫害と言えば、303年のローマ皇帝による迫害だ。時の皇帝ディオクレティアヌスは、聖書をこの世から抹殺すべく、当時の世界に存在する聖書をすべて焼き払うよう勅令を出した。聖書を持っている者も死刑とされたのだ。印刷技術が発明されていない当時。手書きの写本の数などたかが知れている。数年の後、ディオクレティアヌス帝はすべての聖書を滅ぼしたと確信し、「キリスト教は滅亡した」という記念碑を建てたと言う。しかし、聖書は生き残り、むしろどんどん増え広がっていったのである。
無視論者ヴォルテールは、聖書を批判する本を何冊も書き、多くの人々に喜んで受け入れられた。彼は数百年後には聖書は忘れ去られると確信したが、晩年の言葉はこうだった。「わたしは一生涯をかけて何という馬鹿なことをしてしまったのだろうか。」 なんと、彼の死後25年たって、彼の家は聖書協会に買い取られ、そこで今日に至るまで聖書が印刷されている。
ドイツのケラーという人物も、聖書は歴史的に信頼できるものではないと批判し、調べ始めた。ところが、調べれば調べるほど歴史と聖書の記述が恐ろしく一致していることを知り、「やっぱり聖書は正しかった(歴史としての聖書)」という本を著したことで知られる。
聖書の中の「使徒の働き」には、クリスチャンに対する多くの迫害が記されている。だが、同時に、迫害が起こる中で、かえってキリスト教が広まって行った歴史的経緯が記されているのだ。
聖書の中に、「神のことばは永遠に立つ」という言葉がある。この言葉は真実である。これから先の時代も、誰もこの聖書を滅ぼすことはできない。私はそう確信している。
女王の教室特別編(後編) ― 2006/04/08 11:13
女王の教室スペシャル版の後編をやっと見た。
こうやって鬼教師・阿久津先生が生まれた。という内容。
率直な感想は、
うーん、ちょっと無理がある感じ
というのは、こういう背景からあのような教師が生まれるだろうか?という疑問を感じるからだ。「こういう」とか「あのような」と書いているのは、多少はネタバレを気にしているのと、前回書いたものを読んでいることが前提となっているから(読んでない人は前回のをまず読んでネ!)。
中途半端なやり方では、現代の子供たちには立ち向かえない。親の圧力に屈していたら、子供たちはなお更つけあがり、大人をうまく利用するずるさばりが身についてしまう。そういったことを強く感じ、何を言われても自分の信念を貫くことを決意したというわけだが・・・
私が特別編を見て思ったのは、この先生は生徒への愛も深い先生。適当に、うまくいい加減にやるタイプでない。そして、子供たちの表面的な声ではなく、心の叫びを聞ける先生だ。逆に、それゆえに、あの本編シリーズの阿久津先生の姿と、そうなるまでの過程とにギャップを感じてしまうのだ。
やはり後付のもの?なのだろうか。それとも、設定として詳細な阿久津先生の歴史が最初からあって、それをドラマとして提示しただけなのか。
まあ、いずれにしても、ギャップを感じた人はいるのではないかと思う。とはいえ、そこにあるメッセージはやはり強烈であろう。なぜ、「人を殺してはいけないのか。」 そういう子供たちの疑問に答えられる教師がどれだけいるだろうか。親がどれだけいるだろうか。子供たちは、本気で自分たちと向かいあってくれる親や教師を、心の深いところで求めている。良い先生という評価を求める教師、問題の教師と言われたくないという自分がかわいい教師。そういう教師に子供たちは心を開くことはないのだろう。
命がけでそれをした教師を私はよく知っている。 私にとっては、イエス・キリストという方がその模範である。
私が変わらなければ ― 2006/04/11 22:27
民主党の新代表に小沢氏。 読売新聞によれば、56%の人が小沢新体制に期待しているらしい。
なぜ迷っていた人が小沢氏に投票したのか?という分析の中で、小沢さんの演説の中の「私も変わらなければならない。」という言葉に、その真剣さを感じ、票を投じた人がいるようだ。「あんな小沢さんははじめてだ」そう感じさせる真剣さがあったようだ。
聖書の考え方は、他人を変えることよりも、あなた自身が神様によって変えていただきなさいという考え方だ。他人の目の中にある小さな塵はよく見えるのに、自分の目の中にある大きなゴミは見えないのかと、イエス様は私たちに問う。自分の目の中にある大きなゴミを取り除かなければ、見えるものも見えなくなるのだ。
小沢さんの言葉が真実かどうかは、これから問われること。でも、その人が真剣に物事を良い方に変えていきたいと決意したなら、まず最初にすることは、自分自身が変わることだ。自分の罪、自分の欠点を素直に認め、悔い改め、悪に対して悪で報いる生き方から、悪に対しても善を報いる生き方へと変えられること。
改革したいなら、まず自分の改革が必要ではないだろうか。 神様は聖書を通して、いつもそう語っている。
私も変わらなければ・・・。
復活の力が心を燃やす ― 2006/04/19 16:08
またまた更新が滞りました。
理由は、忙しい日々を送っているからということにしておきましょう。
さて、新緑の季節になりつつある。
先日はイースター(復活祭)で、まさに死を打ち破るいのちの力について、考えていたところだ。
当時、キリストが十字架で死んだとき、弟子たちをはじめ、イエスに付き従っていた者たちは、本当に絶望した。この世の権力にキリストは敗北したと思った。死には打ち勝てなかったことで、ただの人と思った者もいるだろう。失意のどん底にいたのだ。
だが、復活のイエスは、その絶望を希望に変えた。いや、単なる希望を胸に抱くというレベルではなく、死とこの世の力、サタンの力に完全に勝利したのである。いのちが死を打ち破ったのだ。
絶望してエルサレムを離れて行く二人の弟子がいた。そこに復活したキリストが現れ、みことばを説いた。彼らは最初、復活のキリストとは、気づかなかったが、心に燃える熱いものを感じたのだ。その人物と聖書について語りあっていたとき、ずっと心がうちで燃えていたという。
私もこの復活の主に心を向け、心のうちに燃えるものをいつも持っていきたい。
パソコン故障と味噌汁 ― 2006/04/26 13:42
最初にことわっておきますが、パソコンの故障と味噌汁との間には、何ら因果関係はありません(^_^;)
家のパソコンが故障しかけている。すさまじく遅くなっており、しかもこのブログにログインできない(T_T)/~~~。しようとするとエラーが出て、強制終了するのだ。ウィルスの被害なのか、老朽化の問題(5年以上前に展示品処分で購入)もあるのか、あるいは私が大事なものを間違って削除したなどの問題か、わからないが、とにかく今にも止まりそうな勢いだ。
うーん。安くなったとはいえ、パソコンの出費って本当に大きいから、痛い!
話は全く変わるが、昨日の味噌汁が美味しかった。妻が味噌を生協の味噌に変えたと言っていたが、説明すると、なんともやさしい味だ。「私は味噌だ!」という自己主張をしておらず、具財の味を引き立てる謙遜さを感じた。
うーん。こんな味噌っていいなあ。 自分の力を誇示せずに、周りの人の持っている良いものを引き立てることができる。そう。聖書で言うところの「柔和」という資質によく似ている。柔和という資質は弱い資質ではない。本来は優れた力を持っているにも関わらず、周りの人を生かすためにあえて力をセーブし、控えることができる資質だ。できるからと言って自分の力を誇示せず、愛や他の人への配慮から、他の人に活躍の場を喜んで譲ることができる資質だ。
これって、今の私に必要なことだ。何でもかんでも一生懸命やって、周りが見えなくなったら大変だ。弱い人も強い人も、元気な人もそうでない人も、色々な人が自分の居場所を見つけることができる。そんな教会になるには、こんな味噌汁みたいな役割が必要なんだなあと思わされた。
最近のコメント