新年度 ― 2007/04/27 12:24
本当に久しぶりの更新です。
ブログを続けることを、一つの目標にしていたものの、危うく終わってしまうところでした(笑)。
でも、またやります!!
で、せっかくなので、心機一転して、新しくブログを作ろうかと検討中です。
でも、タイトルは「新・アーリー牧師の徒然草」になる予定です(笑)
どこのブログで作るか、考えてますので、ちょっと待っててください!
久々です ― 2007/01/13 12:52
本当に久々の更新となります。 もはや、誰も読んでる人がいないのではないだろうか・・・。
と思えるほどです(笑)。
でも、神様は読んでいて下さるんです。
私の心も、私の行動のすべてを知っていて下さるんです。
私達にとって、辛いなぁって思うことの一つは、誰にも自分のことが理解してもらえないと思うときです。
自分の苦労や、自分の努力や、自分の考え、主張が理解してもらえない。これってすごく孤独なんですよね。
神様は、あなたの労苦、忍耐をすべて知っているとおっしゃいます。私自身さえわかっていないような、髪の毛の数まで、知っておられる方なんです。
そんな方が今日も私とともにおられ、私に労苦を知っていて下さるんだと思うとなんか嬉しいじゃありませんか^^
律法って堅苦しい? ― 2006/11/15 13:15
Q. 聖書の中にはたくさんの律法があって、あれをしろ、これはダメなどと、命令調の言葉が多いですよね。なんか堅苦しく感じるし、拘束されるような印象を受けるのですが・・・。
A. 確かに、聖書にはたくさんの戒め、律法がありますよね。そして、その字づらだけを追っていると、何か神様って口うるさい母親のような印象を受けるかも知れません。
でも、よくよく聖書を読み、その言葉に示された神様の心を知っていくとき、聖書に多くの律法が記されていることが、恵みに思えてきます。
ある場合には、聖書の律法はレントゲンのようなものだと言われます。レントゲンは、私たちの体の悪い部分を調べるために撮りますよね。同じように、聖書の律法は、私たちの生活や生き方に関して、正しいものと正しくないものを明らかにしてくれます。
自分が罪人であると自覚しなければ、その解決を求めることさえしないのが人間です。自分が病気であることを知らないと、治療を受けようとしないのと同じですよね。だから、神様は私たちに、神様の定めた基準を明確に示して下さっているのです。私たちを責めるためではなく、私たちを救うためにです。
また、律法は、神様と人間との関係だけに意味を持つのではありません。人間が互いに愛し合うために、より健全な関係を持てるように、秩序を与えるため、示して下さっているのです。人間の社会に法律や様々なルールがあるのは、神様が与えて下さった恵みだと言えますね。英米法などは聖書をもとに作られています。
また、レビ記というところには、食べて良い動物、食べてはいけない動物などの記載があります。それらが事細かに記されているのは、私たちにきよさや汚れを教えるためでありました。しかし、それだけでなく、人間の命に関わることもでもあったのです。冷蔵庫も食品衛生の知識もまだなかった時代には、食中毒や疫病などが非常に大きな問題でした。神様は、そういう時代に、人々が滅んでしまわないようにと配慮して下さったとも考えられます。事実、当時のユダヤ人は、他の民族に比べて格段に長生きだったそうです。
神様は私たちを深く愛されているからこそ、事細かに律法を与え、私たちを守り、幸せに歩めるようにとして下さっているのです。そして、それを文字通り守ること自体が大事なのではありません。むしろ、そこにある神様の心、神様の思いをしっかりと理解していくことの方が大事ではないでしょうか。その思いを理解するならば、拘束されるような関係ではなく、神様の愛に感動し、喜び、自発的にその愛に応えていく生き方ができるのではないでしょうか。
功名が辻 ― 2006/11/05 14:04
司馬遼太郎原作の「功名が辻」
現在放映中のNHK大河ドラマだ。
その中で、豊臣秀吉、徳川家康といった人物が、諸大名をどのように自分の味方としていったかが描かれている。秀吉も、家康も、共通して描かれていたのは、誰が真に信頼できる者なのかを見極めようとしていた姿である。
戦国の時代、大名たちは強いものにつかなければ、自分たちのお家の存続もままならないという背景があった。そのために、頑固に忠義を貫いていても、自分の家族、お家を守るために止む無くつくべき相手を変えなければならなかった。
しかし、それは一方で、上の者からすれば自分のことをいつ裏切るかも知れないとの不安の種でもある。だから、二人ともあえて自分に不信をいだかせるような行動をとってみたりする。そこで、本当に信頼できるものは誰なのかを見極めようというのである。
いつの時代でも、信頼に値する存在があるかどうかは、大きなものだと思わされる。自分を裏切らない存在。いつでも自分の味方でいてくれる存在。
これほど尊いものはない。
そう、キリストは、私たちを裏切らない。私たちは真実ではなくても、キリストは真実であり、私たちを決して裏切らず、見捨てず、また失望させられることもない。
偽りの情報にあふれるネット社会を見ながら、真に信頼できる聖書と、まことの神様をいつも心の拠り所とすることができる恵みを覚えた。自分の態度いかんに関わらず、私たちが信頼をおける相手。それはキリスト以外にはいないのではないだろうか。
ネット関連病気あれこれ ― 2006/10/20 08:48
検索エンジンgooのトップページに次のような言葉が並んでいた。
インターネット症候群
mixi疲れ
アマゾン病
未読RSS恐怖症
ウィキペディア中毒
ブログ燃え尽き症候群
四半世紀には、いや10年前には、まだ存在していないような病気、あるいは症候群ではないだろうか。
これらひとつひとつの中身について、詳細に調べたり、触れるつもりは全くない。けれども、いずれも、ネット依存が過度に進行していくことによって、悪化していくことは間違いはないのではなかろうか。この世界は、急速に変化している。人々の心の渇きもまた、加速しているようにも感じる・・・。
インターネットの技術を発展させることも大事かも知れないが、人の心を養い育てることに、もっともっと多くの努力が払われなければならない。これらを利用するのは、他のどんな生物でもなく、私たち人間なのだから・・・。
問題を正す前に ― 2006/10/19 08:52
最近、読んでる本から、教えられることがあった。 『断絶世代とつながるために ~ユースを導くための14章』という本だ。
その中で、人を肯定したり、受容したりすることについて触れられている。
で、このような言葉があった。
「問題を正す前に、その傷ついた心を慰めなくてはならない」
私たちの多くは、特に男性は、傷ついた心をいやすことよりも、その原因である問題にすぐに取り掛かる事が多い。私も、そういう失敗の連続である。
妻が、私に辛かった出来事を話してくるとき、その出来事をどう乗り越えるかを一緒に考えようとする。それは悪いことではない。だが、まず妻が求めているものは、一緒になって痛んでくれる存在である。「辛い思いをしたんだね・・・」その一言が言えるかどうかが、とても大事な気がするのだ。
そして、この本によれば、もし、そのようにしてその人と一緒にまず痛んであげられるなら、少し落ち着いてから一緒にその問題を考えることができるようになるということだ。
本当にそうだと思わされた。痛んでいる人の問題を、早く処理しようとするあまり、その痛みを一緒になって痛んであげることができず、本人も自分が受け入れられていないと感じてしまう。
イエス様は、罪人たちの痛みを知り、一緒に食事をして下さった・・・。 そんなことを思い出した。
伝わるのは心・・・ ― 2006/10/08 14:03
最近思っていることがある。
牧師として色々な人に連絡したり、手紙を書くことがある。けれども、それがいつの間にか、まさに牧師としての責任や義務という動機で、なすようになっている。そんな自分に気がついた。
しばらく来れてない人に連絡を取り、その人が教会に来ると安心する。また、しばらくすると来なくなる。また、連絡する。また来るようになる・・・。
そんな繰り返しの中で、私がしていることは何だろうかと思わされた。
とにかく教会に来れるように連絡を取ることが中心になり、それで来たら目に見える問題が解決したように思える。でも、根本的な問題は触れられていないままであったりするのだ。
私自身、その人への愛をもって接しているのだろうか。その人が来ないと人数が少なくなるからとか、牧師の責任を果たしていないような気がするからなどの動機がないとは言いきれない。だが、それはやはり相手にもわかるのではないだろうか。
やはり本当に伝わるのは心なのではなかろうか。
事実、心の伴わない言葉、心の伴わないプレゼントはむなしい。そして、受け取る時にも、不思議にそういうものはわかるものである。逆に言えば、たどたどしいことばであっても、そこに心が伴っているならば、それが人には伝わるのではないだろうか。
神様というお方は、私たちの心がどこにあるかを問いかけて下さる。
「この民は、口先では私を敬うが、その心は、遠く離れている。」(マタイ15:8)
このような者たちの礼拝は、中身がないので意味がないと言われる。人間関係も神様との関係も、私たちの心の所在が大切なのだと改めて思わされてた・・・。
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