W杯に向けて2006/02/02 21:15

今年はW杯YEAR。 考えただけでわくわくしてしまう。 しかも、日本も出場できるようになって、夢のよう。

ここで、個人的に期待している選手などについて、徒然なるままに述べたい。

中田や中村は言うまでもないが、個人的には小野に頑張って欲しいと思う。彼は怪我があったこともあり、代表には入るだろうけど、レギュラーポジションでは、微妙な面もあるように思う。でも、テクニックがあり、センス抜群のオールラウンドプレイヤーだ。

それから、代表に招集されてもいないが、オランダで頑張っている平山相太だ。今期はすでに7得点とっており、それ以外でもアシストや見せ場を作っている。それだけでなく、ゴール前であまり焦らず、自分のペースでプレイするところが期待できる。高原や柳沢も、きっと練習では良いのだと思うが、本番でゴール前になると焦っているように見える。神経の図太さみたいなものが必要な気がするのだ。

それにしても、3度目の出場となるので、ある程度の結果が求められるのも事実。厳しい世間の目がある。予選突破は必須だと見られている。

選手たちも代表選手枠に入れるかどうかの戦いがあるし、代表に入っても、レギューラーの座を巡っての争いもある。そして、個々人の結果が求められるプレッシャーがある。

だからこそ選手たちには、純粋にサッカーを楽しんで欲しいと思うし、世界のスーパープレイヤーとやりあえる喜びを感じて欲しいと個人的に思っている。

楽しいサッカー2006/02/05 22:14

今日は、うちの教会の男性数人と、子供たちを入れて、初のサッカー練習(一応フットサル)をやってみた。

遊びではなく、あくあまでも練習だ。

今日の目標はとりあえず、怪我をしないこと。

なんとも情けない目標のようだが、とても重要だ。なんだかんだで、皆社会人なので(子供たちをのぞく)、運動不足だ。よって、まず自分の体がどれぐらいついていけるのか、確認しながら、怪我をしないプレーをすることが大事というわけだ。

とりあえず、この目標はなんとか達成できたのでは?と思うが、明日襲ってくるであろう筋肉痛はいかほどのものだろうか。

それから、なんとなく仮のチーム名というか、サークル名をつけたい。みんなの意見も聞かなければ・・・なので、あくまでなんとなくだ。

単純に教会の名前を持ってきて、サンライズ・フットサル・クラブ、略してSFCと呼んでおけばどうだろうか?と勝手に思ってみる。スーパー・ファミ・コンと間違われそうだが、音の響きはいいし、なんとなく格好がつく。

でも、良い交わりにもなったし、一緒に汗を流すのもいい。 子供たちも楽しめたのなら、それも良いことだ。なんとか定期的にやっていきたいと思うが、どうなることやら。でも、これを見ている人で参加してみたいという人がいたら、ぜひ、一緒にやりませう。

と言っても、まだまだ近くの公園で軽くやりましょうレベルで、経験者もほとんどおらず、楽しく怪我せずが、モットーという感じですが・・・。

全然関係ありませんが、明日は私の誕生日。 この年まで神様が生かして下さり、良い物をたくさん与えて下さり、スポーツができるだけの健康が与えられていることも、本当に感謝。

それなのに小さな事で不満を抱き、不平を抱く自分。年をとるごとに、つぶやきよりも感謝の言葉が増えるようになりたい。そう思う誕生日の前日でした・・・。神様、感謝します。

神のことば・聖書2006/02/07 12:42

前回のキリスト教入門では、聖書は40人もの著者によって記されていることを学んだ。しかし、聖書は「神のことば」と呼ばれる。人間の手によって書かれた書物が、なぜ、誤りなき神のことばと言えるのであろうか。

3. 神のことば・聖書

直接には人が書いたにも関わらず、聖書を「神のことば」だと言うのはなぜだろうか。

① 聖書自身が証言している。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(Ⅱテモテ3:16)

「(聖書の)預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

 これらの言葉によると、聖書は神の霊感(聖霊の働き)によって記されたということになる。神の霊感によって書かれたとは、神様の霊(聖霊と言う)が人に宿り、その人を神様の意志のままに導き、ご自分の意志を誤り無く記させたということだ。その際、何かにとりつかれて無意識のうちに書いたということでもなく、自分の意志に反して手が勝手に動いたということでもない。神様はその人の人格や、文体のくせなど、その個性をそのまま生かして、それでいてご自身の意志を誤り無く書かせたのである。

 直接書いているのが人間なのに、なぜ神様が著者であると言えるのかということについては、こう考えてはどうだろうか。「代筆」というものがある。実際の手紙でも、またメールでも、口頭で言った内容を他の人に書かせるという方法だ。私もときどき、妻に代筆を頼んだり、逆に妻から聞いた内容を代わりにメールで打ったりすることがある。その場合、実際に書いた人間と、その内容を話した人間とは別の人だが、その場合、内容を話した人の手紙として理解されるのではないだろうか。

 聖書には預言者という人がいる。「預言」は、「予言」とは違う。「予言」は、将来のことを予(あらかじ)め言うこと。だが、「預言」は将来のことについても、もちろん語るわけだが、基本的な意味は、神様から言葉を預(あず)かり、それをそのまま人に伝えることを指す。預言とはまさに、神から預かったことばを、人が代わりに語り、記すことである。そして、これらの預言が語られた通りに実現(成就)していることもまた、聖書が神のことばである根拠と言える。

② 外的な根拠

聖書の証言を裏付ける外的な証拠も多くある。ひとつには前回の1と2で学んだ内容である。圧倒的な数の人々に支持され、世界のベストセラーとなっている事実。1600年かけて、40人の人によって書かれているにも関わらず、矛盾がなく一貫性があるという事実。

さらに、これからも学んでいくが、世界への影響力や、迫害の中でも滅びなかった不滅性。あるいは歴史的、考古学的根拠などだ。

聖書は知れば知るほど、信頼性が高まる書である。信じられない人々のひとつの原因は、「知らない」ということではなかろうか。この入門コーナーが、少しでも聖書のことを知るのに役立つ場となることを願う。

違う側面から・・・2006/02/09 23:12

ある本に、こんなことが書いてあった。

百円玉は長方形!?

ん? どういう意味だ。

百円玉は○に決まっている。玉だしね。でも、百円玉も、見方によっては細長い長方形に見えたり、楕円に見えたりする。自動販売機の硬貨口を見れば一目瞭然。そう、細い長方形の穴が空いている。楕円に見えるのは、百円を寝かせていく途中で見える姿だ(斜めに傾けて見る)。

結局何が言いたいのか。

どんな物事でも、見る角度、見方によっては、違う側面が見えるということだ。テストで70点とったとき、70点しかとれなかったと見ることもできれば、70点もとれたと考えることもできる。いや、70点という数字よりも、テストが受けられて感謝だったと考えることもできる。そう、病気でテストを受けることすらできない場合もあるからだ。

神様は私たちに、常に新しい物の見方、価値観を提供してくれる。

「いつも喜んでいなさい。」聖書の一節だ。

「それどころか、患難さえも喜んでいます。」聖書の一節だ。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」これも聖書の一節だ。

クリスチャンになっても、苦しみはなくならない。でも、苦しみに出会ったとき、見えるモノが変わってくる。苦しみはただの不幸ではなくなり、謙遜にさせられる機会になり、同じように苦しんでいる人の痛みを理解する助けになり、弱さの内に働く神の力を体験する。「なんで私だけがこんな目に・・・」から、「この出来事にも神様のご計画がある。このことを通しても、神様に色々な事を教えていただける。」という考え方へとシフトさせて下さる。

私たちを取り巻く環境は、そうやすやすとは変わらない。それならば、同じ環境の中でも、その環境をどう受け止めるか、物事をどう見ていくのか、それを神様から教えていただいてはどうだろうか。周りは変わらなくとも、あなたは変わることができる。いや、神様が変えて下さるのだ。

死も、いのちも・・・2006/02/12 21:56

今日、ある女性が亡くなった。

私が牧師としてこの教会に来て、2番目に救われた方だ。

突然だった。

いや、以前から重い病があり、体も悪いところがいくつもあった。

しかし、それにしても突然だった。水曜日に会ったばかりなのに・・・

今回の入院はもともと、股関節の手術のためで、内科的な問題とは関係のない入院だった。1月にお見舞いに行った時は、非常に元気で、もうすぐ退院できそうだという話だった。

そして、退院したら、また教会に行きたい。そのように元気に語っていた姿が忘れられない。

人の死は、どのように訪れるのか、わからない。だから、私は牧師として、伝え続けねばならないことがある。先延ばしにしてはならない。そう思わされた。

彼女は、イエス様をしっかりと信じてパラダイスへ旅立った。

水曜日に会った時にも、「お祈りして下さい」と彼女は自分から頼んできた。その場で聖書の言葉を読み、共に祈った。その時読んだ聖書の言葉は、奇しくも以下の箇所だった。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38-39)

この言葉が彼女の心に留まり、平安を与えられたのかどうかは、私にはわからない。でも、ひとつ確かに言えることは、このみことばは真実であるということだ。

彼女と再会できる日があること。

これが、キリストを信じる者の大いなる希望だ。

目に見えない神2006/02/15 15:43

Q. 神は目に見えないのに、どうして存在していると言えるのか?

A. 目に見えないからと言って、存在しないとは言えない。むしろ、目に見えないものほど、大切なものである場合も多い。

たとえば、愛や友情は目に見えるだろうか。目に見えないが、確かに存在する。あるいは、電波や風も、目に見えない。

また、目に見えるものによって、神という存在を知ることもある。

「神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

アイザック・ニュートンのこんな逸話がある。彼の部屋には立派な太陽系の模型があった。ハンドルを回すと、本物の天体そっくりに動くのだ。あるとき、無心論者の友人が部屋を訪ねた。すぐにこの模型を見つけ、これは誰が作ったのか?とニュートンに聞いた。ニュートンは答えた。「誰でもないさ。」 ところが、この答えに納得のいかない友人は、「馬鹿なことを言わないでくれ。こんな立派な物、誰かが作ったのに決まっているじゃないか。これを作った人はなかなかの天才だよ」と言った。

すると、ニュートンは彼の肩に手を置き、言った。「これは、はるかに壮大な体系の粗末な模型に過ぎない。その法則を君も知っているではないか。この単なるおもちゃが設計者も製作者もなく、ひとりでに出来たと言っても、君は信じない。ところが、君はこの仕掛けのもとになった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。一体、なぜ、そんな不統一な結論になるのか、説明してくれたまえ。」

万有引力の法則を発見したニュートンは、神が秩序立てて造った宇宙の法則を発見したに過ぎないことを知っていたのである。

20世紀最大の科学者と言われるアインシュタインも、「私は、神の天地創造の足跡を探していく人間である」と言った。

確かに神様は目に見えない。だが、奇跡の書、世界のベストセラーである聖書は、神の存在について厳かに語る。神から遣わされた御子キリストも、神について証言し、ご自身と神とがひとつであると言う。キリストの証言に関する資料も膨大である。作り物語だとするなら、そんなに膨大な資料が残されていること自体、説明ができないのだ。

そして、あらゆる被造物が、神の存在を証明している。広大な宇宙、自然の調和や秩序、生命の神秘。これらの存在を偶然とか、突如出現したなどと理解することは、私たちの理性を破壊する行為ではないだろうか。

だが何よりも、目に見えない神を知るには、神を体験することである。聖書に従って神を信じて、実際に歩んでみればわかることである。目に見えるものでさえ、私たちは体験してみなければ分からない。有限の人間が、無限の神を知るには、神が示してくれた方法で知るしかないのではないだろうか。

トリノ五輪2006/02/17 21:37

トリノ五輪で盛り上がっているような、盛り上がっていないような今日この頃。

なかなか表彰台に上ることができず、ストレスがたまる冬季五輪ではなかろうか。不運と言うべきか、これが現実と言うべきかわからないが、なんともスッキリしない感は否めない。

五輪と言えば、世界の一流選手が集まる大会という認識がある。だが、今回の日本人選手のそれは、一流と言って良いのか疑問が残る。マスコミの過大評価で、なんとなく期待してしまった我々も悪いのだが・・・。単にメダルを取れていないということではなく、負け方が悪い印象がある。特に、精神面の弱さや、初歩的な問題で負けているところが、スッキリしないひとつの原因ではないだろうか。

私が感じていることは、戦う前に負けているということだ。

原田選手に関しては、何も言う気がしない。「せっかくの出場枠を無駄にした」と荻原次晴さんも言っている。本人が悪いわけだが、コーチらにも責任がある。勝負以前の問題だ。

スノーボード・ハーフパイプは、とても残念だ。これこそ、勝負以前の問題。W杯で優勝しまくった日本人選手たち。そこに驕りがあったのでは?と思う。聞けば、このW杯には米国の選手たちは、ほとんど出場していなかったそうではないか。にも関わらず、監督は「自分たちの方が力は上、これで勝てなければしょうがない」といった内容のことを豪語していた。

当然選手たちも、実力の差を認識していなかった。事実、彼らはこの五輪ではじめて、圧倒的な実力の差を知ったようである。それは結果として、米国の選手たちに少しでも追いつかなければ!という、ハングリーさや向上心を奪ってしまったことにはならないだろうか。世界との差を謙虚に受け止めて、切磋琢磨して欲しいと、あくまでも応援する気持ちを込めて言いたい。

その他にも、重要なところでコケル選手が多い(うーん悲しい)!目の前に転がっている勝利。その手前で、力を発揮できない精神的な弱さを感じる。とはいえ、オリンピックというところは、想像を絶するほど緊張するところなのだろう。そこに立って、まともに競技をするだけでもすごいのかもしれない。しかし、感動を与えるような競技を見たい。それは、世界中の人々の願いではないだろうか。