新カテゴリー「ドラマ・映画評」2006/01/11 22:59

タイトルのとおり、新カテゴリーを追加。

さっそくこのお正月のドラマの感想などをのべたい。 今回は、以前から好んで見ていた、古畑任三郎。 日本版刑事コロンボと言ったら失礼なのか、光栄に思われるのかはわからないが、個人的には刑事コロンボより楽しめる。

しかも、今回は、ファイナルと銘打ってあり、これで見納めなのか?と思うと、見ないわけにはいかない。

ということで、三夜連続で行われたが、一番のお気に入りは初日の「今、甦る死」。藤原達也さん、石坂浩二さんというダブルキャストでしたが、これが一番面白かった。藤原達也が演じた音弥という青年(少年?)は、非常に賢く、小学生時代に自作した完全犯罪ノートをもとに、兄を殺してしまう。が、同時にとても幼い。おっと、ここであらすじを述べてもしょうがないので、ご存じない方は下記のHPをお読み下さい。 http://www.fujitv.co.jp/furuhata/index2.html

興味深かったのは、この音弥という青年の人間像。先に述べたように、彼は非常に賢い。でも、何か人格には大きな「ゆがみ」を感じる。実は、彼は自分で犯罪を犯したつもりでいたが、石坂演じる天馬先生(小学校時代の恩師)に、うまく利用されていたに過ぎなかった。しかし、この天馬先生は音弥にまったく強要せず、教唆もせず(殺すよう説得するなどせず)、誰も立証できないように彼を誘導したのだ。新興宗教の教祖と弟子のような関係に例えたら良いのかもしれない。

実は、音弥という青年像は、非常に賢いが、最も利用され易いタイプだ。自分の意見をしっかりと持った自立したタイプではない。自分に自信がなく、周囲の意見に左右され易いのだ。そして、とても依存的である。彼にとっては、天馬先生は自分を最も理解してくれる人、評価してくれる人、そのように思っていた。だが、表面とは裏腹に、天馬先生は、かつての自分の犯罪を隠すために彼を駒のように利用したに過ぎなかったのだ。

ある意味、現在の若者像、いや、現代社会の人間像を巧みに捉えていると私は思う。ある人は、

「現代社会では、自分で考え、自分ひとりでも何かをやっていこうとする人が少なく、周りの人と上手くやっていくことばかり考えている人が多い。」

と指摘している。宗教の分野でもそうだ。人の手によって作られた多くの宗教は、人の都合で教えを変えすぎている。周りの人と上手くやっていくために変化する。日本で一番多い宗教は、やはり仏教だろう。だが、実際に仏教を知っている人は少ない。信仰を持っている人はなお少ない。でも、手を合わせ、お焼香をする。意味などわからず、周りの人がしているから・・・。季節によって宗教をカメレオンのように変えるのも日本人ぐらいだ。葬式は仏教、初詣は神道、クリスマスはキリスト教。そして風水、占い。

それは、どの神様から見ても(実際には聖書の神以外の神はないと思うが、あえて・・・)、

なんと節操のない、いい加減で、人の目ばかり気にする日本人よ! 私への信仰がないなら、うわべだけでそれをするな!!

という事になるだろう。キリスト教では、儀式的な物も、意味がわからないのに、無理やりさせることはない。意味を知り、それに納得し、自分の意志でするからこそ、神の前に意味があるのではないだろうか?

神という存在を、私たちはあなどってはいけない。

馬鹿にしてはいけない。

見せかけで手を合わせ、それらしいことをしているだけで騙せるような相手は、神ではない。人間だって、本物か、偽物かどうかぐらい見分けることができる。形だけなのか、心から信じてやっているのか、意味を知ってやっているのか、見分けられる。

私のお決まりのパターンで、ドラマの話しから、信仰の話まで発展。古畑シリーズにお決まりのパターンがあるように、私のブログにもお決まりのパターンが(意図的に?)生まれつつある。

それはさておき、無理やり締めくくりたい。この古畑シリーズの魅力は、そこに出て来る人間模様だ。楽しめる映画もドラマも、共通しているのが、人間という存在をどれだけ巧みに描けているかであるような気がする。そして、同時に、人が関心を持つ映画やドラマを見ると、現代社会の人々のニーズや関心が見えてくるのも面白い。