セルフイメージ5 ― 2006/01/05 16:20
今回のセルフイメージのテーマは、すばり「罪と十字架」だ。
聖書は言う。
「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・」(ローマ3:23)
セルフイメージについて考えるとき、罪についてどう考えるのか、これは重要な問題である。誰でも自分が罪人だと知って嬉しいはずがない。罪責感がひどくなれば、病気にもなる。それで、ある人々は、自分に罪があると考えさせること自体、セルフイメージの低下を招くので、罪の話などすべきではないと言う。なるべく、罪のことなど意識しないようにさせると言う。
しかし、これは逆効果だ。罪は意識しないようにしても、その人の内にあるのだから、必ず罪責感に襲われる。自分で隠そうとすればするほど、罪悪感はかえって強まるものだ。そして、罪を意識しないことは、罪の解決にはつながらない。
では、どうすれば良いのか。罪の解決があることを知ることである。罪は赦されるものであることを知ることである。罪責感からも解放され得るのだということを知ることである。実は、この罪の解決を正しく認識し、体験していく時に、健全なセルフメージが形成されていく大きな力となる。
例えば、人をひどく傷つけてしまった時、自分では相手に何もしていない、自分は悪くないと言い聞かせても、罪責感は決して消えはしない。でも、傷つけてしまった当の本人から、「君のしたことはすべて赦すよ。」とただ一言言われるだけで、その罪責感から解放されるものである。赦されることが、どれほど大事なことであるかがよくわかる。
全知全能の神、すべてを治める裁判官なる神様は言う。 「私たちの代わりに、十字架で裁かれたキリストに免じて、お前たちを無罪放免にする。罪は犯したが、またこれからも犯すが、すべての罪の身代わりとなった我が子キリストに免じて、その罪をもう二度と問わない。すべて忘れる。私の前にいるのは、白い義の衣を着せられた義人だ。」
ここでセルフイメージとの関係について明確にしたい。 この人が赦され、無罪になったのは誰のおかげか。この人の努力や善行、保釈金ではない。すべては救い主イエス・キリストと、愛に満ちた正義の裁判官なる神様による。これを確かに信じるならば、自分の力で救われたと高ぶることもなく、罪責感に縛られ、否定的な生き方をすることもない。
ここにこそ、思い上がりもせず、自分はダメな人間だと自己卑下もしない健全なセルフイメージが築かれる。命の犠牲を払われた神様の愛に感謝し、生かされている日々を喜ぶ姿勢がここに生まれてくる。
「罪と十字架」 これがセルフイメージのキーワードである。
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