聖書の影響力2006/05/17 14:23

 キリスト教入門シリーズ、「聖書」の第五回目。

 5. あらゆる分野に影響を与えている聖書

 聖書ほど影響力のある書はない。影響力があるからこそ、多くの迫害や反対者がいたのだ。たいした影響力もないのならば、誰も関心すら抱かない。放っておけば良いのだ。

 だが、聖書は世界中、至るところに影響を及ぼしている。すぐに思いつくのは、文化や芸術の分野だ。かの有名なシェークスピアは、聖書から得た多くの知恵をその文学に生かしている。ドストエフスキーは、聖書と出会って後、著名な作品を多く残した。日本でも太宰治は、聖書を読みふけり、名作を多く残した。私が好きな三浦綾子さんもまた、優れた文学者である。アウグスティヌス、ダンテ、パスカルなども聖書から影響を受けた著名作家である。音楽の分野でも、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーベンなどは、聖書の影響を強く受け、神を賛美する名曲をいくつも作曲した。これらクラシックに始まり、現代でもゴスペルや賛美歌は、世界中で愛される歌の一つではないだろうか。日本でさえ、アメージンググレイスやオリンピックなどの表彰式で流れる賛美歌、きよしこの夜など、なじみのある音楽がいくつもある。西洋の絵画や彫刻などの多くは、聖書をモチーフにしているし、建築については教会建築は世界中で芸術的遺産の一つとされている。

 印刷技術の発達は、まさに聖書を世界に広めるためという動機が中心であった。グーテンベルグの印刷機が発明されて、最初に印刷されたのは聖書であった。また、多くの法律の原点は、聖書であるとも言える。英米法は聖書を土台にしている。ということは、英米法が根底にある日本国憲法も、その恩恵をいくらかは受けているのだ。

 助け合いの精神で始まった生活共同組合(生協)にも、聖書は関わっている。イギリスでスタートした生協だが、このスタート時のメンバーには幾人ものクリスチャンが参与していた。「日本の生協の父」と呼ばれる賀川豊彦もクリスチャンであった。男女平等の思想、人権の思想、平和の思想なども、聖書の影響力が強くあると言われる。ヘレン・ケラーやマザー・テレサ、ジョージ・ミュラーなどに代表されるように、社会的弱者への福祉的働きも聖書の愛が土台である。

 何よりも人をまったく生まれ変わらせることができるのが、聖書の最大の影響力と言える。ロビンソン・クルーソーのモデルとなった人は、聖書によって全く別人のように変えられた人だ。荒くれ水夫だった彼は、水夫仲間に無人島に置き去りにされたのだ。それほど、手のつけられない人物だった。彼は無人島で自分の荷物の中にまぎれていた聖書を手にした。他にやることのない無人島で、彼は聖書をむさぼるように読んでいたのだ。迎えが来た時には、彼は非常に穏やかな人となっていたと言う。ヤクザの抗争を描いた映画、「仁義無き戦い」のモデルとなったヤクザさんも、聖書に出会い、自分の罪を悔い改めて、全く別人のように穏やかな人になっている。

 世界人口のおよそ半分が、旧約か新約か、少なくともそのどちらかを神からのことばと信じているという現実もある。聖書はどうしてこれほどまでに、力を持つのだろうか。この聖書がただのおとぎ話なら、こんな事になるはずがない。単なる歴史書なら、一部の学者や歴史好きの人の間だけで終わるだろう。これほどの影響を持つのは、聖書が神のことばである、私たちを生まれ変わらせる人生の書であるからに他ならないと私は思う。

ダ・ヴィンチ・コード2006/05/18 13:30

今、巷を騒がせているダ・ヴィンチ・コード。私はほとんど歯牙にもかけないでいたのだが、この度米国カトリック団体が抗議と不買運動を開始することにしたようだ。映画の公開にあわせて19日からするそうだ。映画配給会社はソニーの関連会社ということで、ソニー製品の不買運動ということらしい。Yahooのニュースによれば、世界のカトリック信者10億人規模の運動にしていきたいということらしい。果たしてどこまで広がるのだろうか。

そもそも何が問題にされているのか。

すでにだいたいの内容を知っている方も多いと思うが、ようはキリストが子供をもうけていて、その事実を教会が隠し続けてきたという内容を、いかにも事実であるかのように主張している点だ。確かにこれは、キリスト教会全体を敵に回すような内容であると言える。

ただ、配給側は、最初からある程度、こうした反響があることは予測していたのではないだろうか。まあ、私から見れば、そんな主張はこれまでもいくらでもあったし、事実無根であるので、ムキになる方がかえって相手の思うツボだと思う。とはいえ、実際にこの小説や映画が与える影響の大きさを考えると、注意しなければならない。イギリスの世論調査では、6割ぐらいの人がこの話を本当だと思っているそうだ。形骸化した信仰の側面を見るようだ。教会に行くことがただの文化になってしまうと、真偽を見分ける目も失われる。信仰が生きていないのだろう。

それにしても、プロテスタントって、カトリックのような組織的な動きが苦手だから、こういう部分では遅れをとってしまうんですよね。私も不買運動でもしようかな・・・って、もともとそんなにソニー製品とか買ってないしなあ。それにソニーが悪いというわけでもないような気が・・・。

やはり、表現の自由がある以上、情報を受け取る側で気をつけるしかないような気もします。

聖書のテーマ2006/05/19 17:29

 キリスト教入門(聖書)の第六回目。

 6. 聖書のテーマ(人を救いに導く聖書)

 聖書は分厚い! 本嫌いの人ならば、見ただけで嫌気がするかも知れない。だが、その分厚い書物は一体何を伝えているのか聞かれるならば、意外にすっきりと答えることができる。それは、「神の愛」である。神の愛がこの聖書全体に貫かれているテーマであって、神の愛が分かったならば、聖書をある程度理解したと言って良いのではないだろうか。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)

 だが、「神の愛」と言っても、漠然としていると感じるかも知れない。愛にも色々あるからだ。ならば、聖書における神の愛とは何か?それは、愛する友のために命を捨てるという愛であり、愛する者のために自分の大切な息子を犠牲にする愛である。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)

 神は私たち人間をお造りになった。人間は神の愛をいつでも体験し、愛の中に生きられる存在だった。だが、人は罪を犯し、神に背をむけ、神を神としてあがめずに歩むようになった。この罪は私たちと神様との間を引き裂いた。隔ての壁である。この罪を持つ罪人ゆえに、神の愛を感じられないのだ。そして、この罪の結果は永遠の苦しみである「滅び」である。神様は私たち人間を罪から救うために、御子イエスを下さった。罪人の私たちには、自分の力で罪の問題を解決することができない。全く罪のないきよい神の御子キリストのみが、私たちに代わって罪の罰を受けることができた。

 神は私たち人間の身代わりに、キリストにおいて私たちの罪を罰して下さったのだ。ゆえに、それを信じて受け取る者は、罪の赦しを受け取り、神との関係を回復することができる。永遠のいのちというのは、単にいつまでも死なないということではない。神と共に歩む幸いないのちの祝福である。この地上において、神様の愛と恵みを体験し、味わっていき、希望と平安に満たされ続けるいのちなのだ。それはキリストを信じた時からはじまり、終わりはない!

 聖書の中心テーマは規則を守ることではない。きよく正しい生活をしましょうということでもない。神のさばきでもない。あくまでも「神の愛」なのだ。あなたのために、いのちを棄てて下さるほどの愛なのだ。あなたは神に愛されるために、今、ここに存在している。ぜひ、この事を知って欲しい。

指輪物語32006/05/24 15:19

タイトルに、「指輪物語3」とあるが、「指輪物語3」という作品ではない。指輪物語についての勝手気ままな評の第三回目という深い意味が、ここに込められている(いやこれっぽっちも深くない!)。

この物語には、イエス・キリストを表すと思われる二人の存在がある。主人公フロドと、王アラゴルンである。この二人の姿を足しても、イエス様には到底及ばないわけだが、イエス様の姿のある部分は、この二人の姿を通して感じられる。作者がどこまで、そういう意図を持っていたかはわからないが、勝手に語らせていただきます。

主人公フロドは、罪を背負って一人孤独に苦しみの十字架へ歩んでいくキリストの姿に重なる。権力の象徴である指輪。それはその身を滅ぼす恐ろし存在である。実際多くの者が、その指輪の誘惑に敗れてしまい、その身に滅びを招くのである。聖書が言う罪そのものである。この罪の結果は滅びであると聖書は語る。でも、これらの罪は一見甘く美味しそうであり、私たちにはとても魅力的に感じるのだ。フロドは、小さな力のないホビット族という小人である。武力や権力によって、この指輪を廃棄するのではなく、自らがその重荷を背負い、唯一この指輪を滅ぼせるという火山に向かって歩んでいく。キリストもまた武力や権力によらず、謙遜にへりくだって、最も小さき存在のようにして、十字架にかかって下さったのだ。私たちの罪を背負って。

一方、アラゴルンは、フロドとは反対のキリストの性質を現す存在のように感じる。とくに、第三部のタイトルは「王の帰還」となっているが、王がこの世界に戻ることで、平和が打ち立てられることを示している。これはマタイの福音書に顕著に見られる王イエスの姿である。武器こそ持たないキリストだが、この世界を造り、この世界を治める王としてのキリストの姿が聖書にあることもまた事実である。王ダビデの子孫として、王家に生まれたキリストの姿。だが、多くの民はその王様をなかなか受けれいれない。だが、この方に自分自身の生涯を治めてもらいたいと決心し、王として自分の心に迎え入れるならば、神の平和が私たちの心に訪れる。

ちなみに、少し前に上映された映画、「ナルニヤ国物語」に出てくる、アスランという王(ライオン)は、この二人の姿を合わせた姿、つまりキリスト自身の姿をより明確に表している。作者自身が、このアスランは、イエス・キリストの事であるということを明らかにしている。

ダ・ヴィンチ・コードなどと違って、聖書が教えるキリストの姿を表そうとする作品として、お勧めである。

クロコダイル・ジャーキー2006/05/29 22:05

高校時代の友人から、オーストラリアみやげをいただいた。

一つはコアラのぬいぐるみ。これは普通だね。

しかし、もう一つはクロコダイル・ジャーキー。つまり、ワニのお肉の干したもの。私は、人生ではじめて食べる。新しい物にわくわくさせながら、早速味見してみる。

うん? 普通だ。

もっとクセのある味を想像したけれども、意外に普通。しかも、子供たちが美味しい美味しいと言って、食べまくる。ワニの肉をこんなに喜んで食べる子供たちって、一体・・・。と思いながらも、みんなで食べてしまった。

しかも、私は胃腸炎をわずらっていたのだが、つい食べてしまいました(少しだけど・・・)。

話のタネに良いおみあげをありがとう!という感じです。世の中には、まだまだ未知の世界があるもんですねえ。