ことばの制御とメール時代2006/07/20 19:41

「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は体全体もりっぱに制御できる完全な人です。」(ヤコブ3:2)

自分の舌を制御するということは、本当に難しい。もし、この舌を正しく管理することができるなら、その人は本当の意味で正しい人なのかもしれない。

特に、親しい人との間での会話は要注意だ。甘えが出てしまうとき、感情的になっているとき、私たちは言葉を制御できなくなる。だが、そのようなとっさに出る言葉や、親しい間柄で発することばこそ、私たちの本心を表していることばなのではないだろうか。

上記の聖書のことばは、鋭く真実をとらえている・・・

ところで、近年ではインターネットの普及、携帯電話の普及が進み、かなりの人がこれらを使っている。かく言う私も「使いまくり」である^^;

だが、この電子メールが結構やっかいなのだ。非常に便利であり、有益なものである。が、会って話すことに比べ、色々な意味でリスクも大きい気がする。また、手書きの手紙などとも確かに違う。

手紙というのは、意外に面倒である。手間がかかる。特に手書きで手紙を書くとなれば、かなりの時間を確保する必要がある。だが、そこがミソだ。受け取る側は、自分のために時間を割いて、わざわざ手紙を書いてくれたことを感謝の思いで受け取るだろう。また、その筆圧、文字のひとつひとつに、その人の感情があらわれる。それでも、もちろん、誤解も起こりうるし、完全に正しく伝えることは難しい。

しかし、それ以上にEメールというものは、気持ちが正しく伝わりにくい。活字の羅列は、それだけでも冷たい印象を受けるのだ。まあ、最近は顔文字というのが、流行ってて・・・(^_^)(^o^)/(-_-;)(ToT)/~~~(#^.^#)(>_<)など、気持ちを表す記号で補う人々が増えている(若い人々の間で)。でも、やはり、気をつけなければ、相手をひどく傷つけてしまう結果になりかねないと懸念するのだ。

大切なことは、実際にメールを打つとき、私たちはパソコンに向かって打つのだが、その先に、ひとりの傷つきやすい、生身の人間がいることをいつも覚えながら書くということだ。顔が見えない、会った事もない人とメールのやりとりをすることもある。でも、どんな人とやりとりする場合にも、その先に神様がお造りになった、尊い存在である人間がいることを忘れてはならないのだ。

あまり話さないようにするとか、メールをしないようにするというのは、極端だ。そういうことではない。しかしながら、聞く人がどう感じるか、このメールを受け取る人がどう感じるかを、よく吟味することが大切だと思う。とくに、メールなら、書いたあと吟味する時間がある。2、3度読み返し、誤解を招く表現がないだろうか、確認してから送信するぐらいの配慮があっても良いのではないだろうか。

私も何度も失敗した (>_<) ←さっそく使った。笑 そして、忙しいときは、そっけないメールも多くなる。だが、人を励まし、人の徳を高め、そして神を賛美するようなメールを送るものになりたい。一通のメールが、人を倒れさせることも、立ち上がらせることもあることを知るべきでではないかと思う。

でも、それは、メールの力ではない!!

メールを書く人の「思いやり」なのではないだろうか。。。 (^_-)-☆